日本には才能を磨くための場が不足している
ついこの間のことだが私は遺伝子工学の研究に興味をもった。
植物や動物をより良い品種に改良していくという仕事が面白そうだと思ったのだ。
一生続ける仕事にしてもよいかもしれないとかなりの情熱をもって調べたのだが、問題が発覚した。
どうやら品種改良の研究を仕事にするためには大学だけでなく大学院も当然のように卒業している必要があるようなのだ。
大学で一日中研究していられるならそれでもよいが、入っても時間の大半は座学の勉強に費やすことになることは目に見えている。
あほくさい。
私は勉強をしたいのではなく研究をしたいのだ。
せめて気軽に体験できる施設のようなものがないかも探したが、結果はゼロだった。
私は品種改良の研究者になることは諦め、未だニートとして日がなyoutubeを堕聴する生活を送っている。
つまり私が言いたいのは、気軽に才能を試し、磨くための環境が整っていないのは問題だということである。
研究をするにしても、カウンセリングをするにしても、保育をするにしても、接客をするにしても、なぜか学校という謎の施設を通過することを余儀なくされる。
もちろんこのご時世ではインターネットを駆使して一人で仕事を作っていくことも可能ではあるが、それにしても修行環境を全く用意しないというのはあんまりではないか。
学校で身につけられるのは知識だけであり、技術は全くと言ってもよいほど身につかない。
相手投手が次にカーブを放ってくることがわかっても、そのカーブが打席から見るとどれだけ曲がるかを把握できていなければ意味がないのだ。
カウンセリングのスキルアップのために必要なのはカウンセリングの実践と経験であり、座学で得る知識の重要性は二の次のはずである。
学校という施設および勉強という行為は万能ではない。
学校とは違う様々な分野の実践経験を鍛えるための環境を早急に用意するべきだ。
今この瞬間にも少年少女が実践を気軽に経験できないことで夢を諦め、才能を枯らしてしまっている。