睡眠を攻略した
私は効率厨なので、昔から趣味で効率的な睡眠法を研究し続けている。
寝具を変え、ヒーリング音楽を試し、ホットミルクを飲み、二時間前に風呂に入り、ブルーライトをメガネで遮り、消化が遅いタンパク質をなるべく控えた。
しかしどれもある程度の効果はあるものの、決定的な施策とはいえなかった。
数々の施策を試していても、私は高校(不登校)時代から睡眠障害に悩まされてきた。
就寝と起床時間が一日1時間ほどずれ、昼夜逆転を繰り返すのである。
そんな生活を送るある日、私はアフィリエイトを始め、その日から完全にハマった。
サイトを作っても作っても商品は売れなかったが、難しい課題に対する挑戦が私を夢中にさせた。
そうやって日々を過ごしているうち、私はあることに気づいた。
いつの間にか昼夜逆転障害は治まっており、毎日布団に入ってすぐに熟睡できているということに。
結論としてはこうだ。
より良い睡眠をとるためには、日々何かに夢中になり、充実した生活を送ることが何よりも大切である。
ブルーライトに当たりすぎない、野菜をしっかりとる、寝具を変える、このような施策は無意味ではないが、所詮おまけ程度の効果しか生まない。
それ以上に重要なことはたった一つ。何かに夢中になるということだけなのだ。
これ以上に重要は施策は存在しない。私は睡眠を攻略した。
そしてこれは睡眠だけでなく、健康そのものに対する決定的な施策である。
バランスよく栄養を摂る?運動をする?そんなことはどうだっていい。
何かにハマる。夢中になる。それだけでよい。
精神的な充実が身体的な充実にも最重要であるということだ。
健全な精神は健全な肉体に宿るのではなく、健全な肉体が健全な精神に宿るのだ。
義務教育の主要科目は芸術と体育にすべき
義務教育の主要科目は数学、国語、社会、理科である。
私はこの現状に大変うんざりしている。
普通に考えてほしい。
なぜ数学や古文、歴史や物理といったマニアックな勉強を国民全員に強要する必要があるのだろうか?
何もそれらの科目の勉強が無意味で不必要なものだといいたいわけではない。
より生きやすい世の中を作ってくれている科学者や研究者にはおおいに感謝しているし、直接恩恵を受けているわけではない古典学者や民俗学者のこともリスペクトしている。
ただ、ただだ。
それらの勉強、学習を国民全員が取り組む必要がどこにあるんだ?という話だ。
現在の学校教育のメインは上記の主要科目の知識の詰め込みにある。
おかしいのはここからだ。
教育課程で知識を暗記し、頭に情報を詰め込むことしかさせていない。
本当に教え、育てる気があるのかと私は問いたい。
学校教育を受けて得られるものは知識と「知識収集力」だけである。
他のスキル、能力に関しては何も得られない。何もだ。
日本の教育ではクイズ王しか育てることができない。
100人に1人くらいはクイズ王がいてもいいが、普通に考えればもっとバランスよく個々人の能力を引き出すべきだろう。
学年に一人くらいは天下の東京大学に合格するような、「知識収集力」に適正があり、勉強を苦にしないような人材もいる。
そういう人はそれでいい。
しかし、100人中99人はそうではない。
適正がない能力を無理に伸ばそうとせず、個々人に向いている能力を伸ばすべき。
非常に当然のことだ。
だからこそ私は主要科目を芸術と体育に置き換えることを提案したい。
家庭科や技術や保健を加えてもよいだろう。
理由は単純に現在の主要科目より人気が普遍的だからだ。
歴史の勉強より体育の授業を好む人が多く、数学の勉強より美術で絵を描く時間を好む人が多いのは明らかである。
マニアックな知識収集を全員に強要するより、適正がある人の割合が高く、それによって人気もある教育を施すべきだ。
そして逆にサブ科目として「旧」主要科目を挿し込めばよい。
そうすれば100人に1人のクイズ王が才能を目覚めさせる機会も与えられる。
現在の義務教育のシステムは効率が悪すぎる。
ポケモンGOはただのコレクションゲームで終わるのか
既に「昔流行ったゲーム」になりつつあるポケモンGOだが、私はこのゲームをリリース初日にインストールしていた。
それだけでなくポケモンGOなるゲームがリリースされるらしいという噂を聞いた一年前から今か今かとと期待しながら待っていたのだ。
この記事では私のスマホにはもうインストールされていないこのゲームに対する文句を連ねたいと思う。
なぜ私が初めてポケモンGOというゲームの噂を聞いたとき心を踊らせたかというと、それは自分のポケモンがバトルを繰り返して成長していく情景をイメージしたからである。
特定のポケモンに愛着をもち、一緒に冒険をしていくなかで成長していけるゲームなんて最高ではないか。
しかし現実はどうだ。
ジムバトルで使える(使いものになる)のは単純に能力値が高い一部のポケモンのみ。
そして育成するための手段はバトルではなく同種のポケモンを捕まえることである。
極め付けはそのバトルシステム自体が非常につまらないということだ。
技は二種類のみ、駆け引きはなし、単純に能力値が高い方が勝つバトルである。
育成要素もなく、バトル要素もつまらない。
それにより特定のポケモンに愛着をもつこともない。
私を含め多くのポケモンファンはこのシステムに絶望しただろう。
要するにこのゲームは単なるコレクションゲームなのだ。
1ヶ月以上このゲームを続けられるツワモノの多くは図鑑を埋めることだけを目的にこなしている。
このゲームが「ポケモン」である理由はどこにあるのか?と私は問いたい。
ポケモンシリーズの魅力は自分の好きなポケモンを育て、能力と駆け引きを競うバトルを繰り広げることではなかったのだろうか?
単なるコレクションゲームであるならポケモンブランドを使う必要はどこにもないはずだ。
開発元のnianticにゲームシステムの一新を所望する。
マズローの欲求段階説を否定する
説を知っている方向けの記事なので説明は簡略化するが、マズローの欲求段階説とは人間の欲求が上画像のように5段階に分かれているという説である。
本やブログでよく引用されるこの説に、私は甚だ納得できない。
尊厳欲求はジャンクフードにすぎない
何より気に食わないのは、尊厳欲求(承認欲求)を社会欲求(所属欲求)を満たした次の段階として定義していることである。
これが誤りであることは現代社会を見渡せばすぐわかる。
例えば仕事に就いていないのにSNSでいいね!を求める私のような存在がそれだ。
私は明らかに社会欲求を満たせていないのに尊厳欲求に走っているではないか。
マズローの欲求段階説は尊厳欲求が社会欲求の上位互換であるようなイメージをもたせることが問題だ。
本来尊厳欲求はお手軽に飛びつける欲求であり、社会欲求より下等なものだ。
お気軽に快楽を味わえるジャンクフードである。
決して社会欲求を満たした高等な人間にしかもてない欲求ではない。
自己実現欲求(笑)
そして第二に、自己実現欲求というわけのわからない存在を定義している点だ。
自身の能力、才能を最大限発揮したいという欲求らしいが、人間全員に当てはまるわけではなく、一部の人間だけがもつものらしい。
私が思うに、これは全ての欲求を満たすことで現れる高等な欲求などではなく、3番目の社会欲求の一つの形にすぎない。
人が社会に貢献できていると感じ、社会欲求を満たすことができるかは個人の主観次第である。
例えば街中のゴミを拾うことで自分は社会に貢献できていると実感できる人がいれば、会社に雇われて忙しく働くことでしか貢献感を得られない人もいる。
これはどちらが良いという話ではなく、ただ人によって主観は違うというだけの話だ。
それと同じように、自分の才能をどれだけ発揮できていれば社会への貢献を実感できるかも人によって違うのである。
その求めるハードルが高く、自分の才能を活かしたいという欲求が強い人だけが自己実現欲求(笑)をもつというわけだ。
こう言っておいてなんだが私も実はそのタイプであり、昔から才能をしっかり活かしきれているかということにかなり敏感である。
マズローには是非ピラミッドの上二つを削ってもらいたい。
「説明」が苦手な人間がブログを続ける方法
私は元アフィリエイターで、高校生の頃一年半ほどサイト作りに勤しんでいた。
作っていたのはブログではなく、販売する商品を前提とするいわゆるアフィリエイトサイトだ。
半年以上無報酬という厳しい現実のなか努力し、挫折する直前あたりには月三万円ほど稼ぐ小規模なサイトを量産するノウハウを得ていた。
しかし私は挫折した。
手順通り作れば稼げることはわかっていても、それ以上続けることは不可能だった。
その原因として、とにかく記事を書くのが辛かったということが大きい。
アフィリエイトサイトの記事には、斬新な文章も意見も必要ない。
とにかくユーザーの求める情報をわかりやすく説明することが必要であり、それがとても苦痛だった。
つまるところ、私はアフィリエイターに向いていなかったのだ。
アフィリエイターに向いているのは、「相手にわかりやすく説明することが楽しい」「自分の説明で相手に理解してもらうことが好き」という人種だ。
これはアフィリエイターだけでなく、ライター業全般にいえることである。
嫌々勉強する人間が夢中になって勉強する人間にはどうあがいても勝てないように、「説明すること」が苦手な人間はそれに夢中になる人間には絶対に勝てない。
ライターとして活躍するためには、「基本的に」説明することが好きであるという前提が必要なのだ。
話がようやく主題に入る。
この忌々しい「説明」の苦痛にうんざりし、ブログを挫折してしまった同志は数え切れないほどいるだろう。
上達しようという向上心がある人ほど「わかりやすく書こう」という方向性に進んでしまい、モチベーションが徐々に減っていくことで死に至る。
取り組んでいたものがアフィリエイトサイトの記事であったり、それ以外の何かを解説する文章であるなら、それは仕方のないことだ。
むしろ挫折した方が他のことに労力を割ける分幸せだといえるだろう。
しかし説明が苦手だからという理由でブログを挫折してしまうのは少しもったいない。
ブログには説明が苦手でも続けられる可能性がある。
先程も述べたがアフィリエイトサイトの記事の目的は「ユーザーにわかりやすく説明すること」だ。
だからこそ、その内容はとにかくわかりやすさを極めたものが求められ、それ以外の要素は邪魔以外の何でもない。
だがブログに求められるものはそうではない。
ブログを読みに来ている読者は何かを理解したいと思っているわけではない。
求められているものはエンターテイメントだったり、和みだったり、一つの意見だったりする。
なので無理にわかりやすい文章を書こうとする必要はないのだ。
むしろクセのある文体が面白がられたりもする。
要するにブログにおける成長とは「よりわかりやすい文章を書くこと」ではないのだ。
ここが重要である。
自分のブログを成長させるためには、自分のブログがどういう価値を提供しているのかを把握することが一歩目だ。
例えば私の場合はこのブログで「奇抜な戦略的意見」を提供していきたいと思っている。
わかりやすさを追求すると間違いなく挫折するので、奇抜さに力を入れていきたい。
読者から求められているものはブログによって全く異なるだろう。
ぱっと思い浮かばなければ、「自分はなぜ文章を書きたいと思ったのか」を考えてみるとよいだろう。
その根源にあなたの文章の価値があるのだ。
今一度まとめると説明が苦手な人間がブログを継続するために重要なのは、成長の方向性を「わかりやすさ」に向けず、「自分のブログならではの価値」に向けることだ。
私も言いたいことが上手く伝わるかなんて深く考えず、とりあえず斬新な意見を提供することだけに集中するつもりである。
日本には才能を磨くための場が不足している
ついこの間のことだが私は遺伝子工学の研究に興味をもった。
植物や動物をより良い品種に改良していくという仕事が面白そうだと思ったのだ。
一生続ける仕事にしてもよいかもしれないとかなりの情熱をもって調べたのだが、問題が発覚した。
どうやら品種改良の研究を仕事にするためには大学だけでなく大学院も当然のように卒業している必要があるようなのだ。
大学で一日中研究していられるならそれでもよいが、入っても時間の大半は座学の勉強に費やすことになることは目に見えている。
あほくさい。
私は勉強をしたいのではなく研究をしたいのだ。
せめて気軽に体験できる施設のようなものがないかも探したが、結果はゼロだった。
私は品種改良の研究者になることは諦め、未だニートとして日がなyoutubeを堕聴する生活を送っている。
つまり私が言いたいのは、気軽に才能を試し、磨くための環境が整っていないのは問題だということである。
研究をするにしても、カウンセリングをするにしても、保育をするにしても、接客をするにしても、なぜか学校という謎の施設を通過することを余儀なくされる。
もちろんこのご時世ではインターネットを駆使して一人で仕事を作っていくことも可能ではあるが、それにしても修行環境を全く用意しないというのはあんまりではないか。
学校で身につけられるのは知識だけであり、技術は全くと言ってもよいほど身につかない。
相手投手が次にカーブを放ってくることがわかっても、そのカーブが打席から見るとどれだけ曲がるかを把握できていなければ意味がないのだ。
カウンセリングのスキルアップのために必要なのはカウンセリングの実践と経験であり、座学で得る知識の重要性は二の次のはずである。
学校という施設および勉強という行為は万能ではない。
学校とは違う様々な分野の実践経験を鍛えるための環境を早急に用意するべきだ。
今この瞬間にも少年少女が実践を気軽に経験できないことで夢を諦め、才能を枯らしてしまっている。
所属欲求は滅私奉公を良しとはしない
所属欲求とは組織、集団に所属し、必要な存在でありたいと感じる欲求だ。
近年この所属欲求が承認欲求の代わりとして重要であるという意識が浸透してきている。
私も大いに同意である。
人間は集団に所属し、貢献できていると実感することで幸福を感じるのだ。
しかし所属欲求のことを大きく勘違いしている人が多いように感じる。
所属欲求を自己犠牲の精神と同義のように語っている人が多いのだ。
これは決定的な誤りである。
所属欲求を満たすために必要なものは滅私奉公の精神ではない。
自己犠牲の精神はいわば自分より他人を優先する思想だ。
自分の上に他人という存在を置いているのである。
これはスポーツで例えれば自分のポジションを能力は足りないが健気に努力している補欠のチームメイトに譲る行為と言える。
自分の幸せより他人の幸せが重要なのだとしたらある意味当然だ。
しかしこれで所属欲求が満たせるかと言えば否である。
なぜならそれでは補欠のチームメイトのためにはなっても総合力が下がるチームのためにはなっていないからである。
所属欲求を満たすためには、自分でも他人でもなく「チーム」を優先する必要がある。
それによってただ意味もなく自己を犠牲にして他人を優先するような行為では所属欲求を満たすことはできない。
自分もチームの一部であることには違いないので、自分に損害が被ることはチームの損害でもあるということを理解しなくてはならない。
自分はチームの一部であり、それでいて自分の上にチームを置くことが正解である。
スポーツの例に戻るなら、自分の方が能力が高ければ自分が試合に出るべきだし、より能力が高い下級生がいるなら素直にポジションを譲るべきだ。
言ってしまえばチームの前では自分も他人も同列なのである。
私はこの所属欲求について考えるとき、いつもハンターハンターという漫画の蜘蛛という組織のことを思い浮かべる。(知らない方は申し訳ない)
組織の要である団長が攫われても大半の団員は冷静そのもの。
なぜなら蜘蛛にとって重要なのは組織の頭ではなく組織自体であるからだ。
蜘蛛の頭を失うのは損害だがもし失っても誰かが代わりになればよい。
それは団長自身にとっても同じことであり、本人は自分が殺されそうな状況でもすましている。
団員にとって最も重要なものは蜘蛛であり、自分は二の次だ。
しかしそれは自己犠牲の精神とは違う。
ただ自分と組織を比較し、組織に重きを置いているだけなのだ。
これは正に所属欲求のお手本のような考え方である。